zen_daiho’s blog

ボケ防止のために勉強したあれこれを記録しています。

道元『正法眼蔵』 【私訳 大悟 草案本】 その3

【私訳 大悟 草案本】 その3

 

“しばらく師の宗旨の<□□□>と摸索せむとするに、さきより摸<索す>べき僧問あり。そのこころは、この問話僧は、<飽參>叢林の雲衲なるべし。
しかあるに、大悟底人却迷時<如>何、と問取するに、華嚴きらはず、叢林わらはぬ、すなはち問<ふべ>きを問し、ならひきたれるを露膽するなるべし。これをもて參究するに、佛佛祖祖の家風・道業には、大悟底人却迷を單傳の懐業とせり。
いま、西天より傳來せると自稱する經師・論師の立せる家門には、大悟・大覺・却迷とはいわず。大悟・大覺の前程、いまだその落處の<種草>になるをしらず。ゆへに、大迷の以前、<知る>なし、大悟のをはりをしらず。大迷のはじ<めを>しらざるがゆへに、大悟をもしらず、大迷を<もし>らざるなり。ゆへにそこばくの謗法となる。永嘉いはく、欲得不招世間業、莫謗如來正法輪なり。“

 

「ここで、禅師の言葉の趣旨の□□□(原文欠落)を推考しようとする時、(それより)先に推考しなければならないのは、(この)僧の問いについてである。なぜならば、この話で問うている僧は、修行道場で長く修行している者であるはずだからである。
そうであるのに、「大悟底人却迷時如何(大悟底人却つて迷ふ時如何。大いなる悟りを得る人はかえって迷うとはどういうことでしょうか)」と問い来た時、禅師は避けられる事無く、修行道場の大衆も軽んじることはなかった。つまり、(この問いは)問うべきことを問うているのであり、修行の中で育んできたありのままの問いを述べているだろうからである。この事をもって參究すると、諸仏、諸祖の伝えられた修行の在り方、仏道修行の方法は、「大悟底人却迷(大いなる悟りを得る人はかえって迷う)」ということを専一の心得としてきたのである。
今、インドから伝え来たったと自称する経師、論師が立てた宗派では、大いなる悟り・大いなる覚醒・却って迷うこと(が一連のものである)ということをいわない。大いなる悟り、大いなる覚醒の道程が、(却って迷うという)帰着への契機になることがまだ分かっていない。そうであるから、大いなる迷いの前提(である大いなる悟りや大いなる覚醒)を知ることがなく、大いなる悟りがどこに帰着するのかを知らない。大いなる迷いの発端を知らないから、大いなる悟りも知らないし、大いなる迷い(がどういうものか)も知らないのである。
このために、はなはだしく仏法を謗ることになるのである。
永嘉玄覚禅師がいわれるとおり、「欲得不招世間業、莫謗如來正法輪(無間の業を招かざることを得んと欲はば、如来正法輪を謗ずること莫れ。無間地獄に落ちるような悪業を呼び寄せないようにしたいならば、仏によって正しく伝えられた教えを謗ってはならない)」のである。」