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ボケ防止のために勉強したあれこれを記録しています。

道元『正法眼蔵』 【私訳 仏性】 その24

【私訳 仏性】 その24

 

“趙州真際大師にある僧とふ、狗子還有仏性也無。
この問の意趣、あきらむべし。狗子とはいぬなり。かれに仏性あるべしと問取せず、なかるべしと問取するにあらず。これは、鉄漢また学道するかと問取するなり。あやまりて毒手にあふうらみふかしといへども、三十年よりこのかた、さらに半箇の聖人をみる風流なり。
趙州いはく、無。この道をききて、習学すべき方路あり。仏性の自称する無も恁麼なるべし、狗子の自称する無も恁麼道なるべし、傍観者の喚作の無も恁麼道なるべし。その無、わづかに消石の日あるべし。
僧いはく、一切衆生、皆有仏性、狗子爲甚麼無。
いはゆる宗旨は、一切衆生無ならば、仏性も無なるべし、狗子も無なるべしといふ、その宗旨作麼生となり。狗子仏性、なにとして無をまつことあらん。
趙州いはく、爲佗有業識在。この道旨は、爲佗有は業識なり、業識有、爲佗有なりとも、狗子無、仏性無なり。業識いまだ狗子を会せず、狗子いかでか仏性にあはん。たとひ雙放雙収すとも、なほこれ業識の始終なり。“
趙州有僧問、狗子還有仏性也無。
この問取は、この僧、搆得趙州の道理なるべし。しかあれば、仏性の道取、問取は、仏祖の家常茶飯なり。
趙州いはく、有。
この有の樣子は、教家の論師等の有にあらず、有部の論有にあらざるなり。すすみて仏有を学すべし。仏有は趙州有なり、趙州有は狗子有なり、狗子有は仏性有なり。
僧いはく、既有、爲甚麼却撞入這皮袋。
この僧の道得は、今有なるか、古有なるか、既有なるかと問取するに、既有は諸有に相似せりといふとも、既有は孤明なり。既有は撞入すべきか、撞入すべからざるか。撞入這皮袋の行履、いたづらに蹉過の功夫あらず。
趙州いはく、爲佗知而故犯。
この語は、世俗の言語として、ひさしく途中に流布せりといへども、いまは趙州の道得なり。いふところは、しりてことさらをかすとなり。この道得は、疑著せざらん、すくなかるべし。いま一字の入、あきらめがたしといへども、入之一字も不用得なり。いはんや欲識庵中不死人、豈離只今這皮袋。不死人はたとひ阿誰なりとも、いづれのときか皮袋に莫離なる。故犯はかならずしも入皮袋にあらず、撞入這皮袋、かならずしも知而故犯にあらず。知而のゆゑに故犯あるべきなり。しるべし、この故犯すなはち脱体の行履を覆蔵せるならん。これ撞入と説著するなり。脱体の行履、その正当覆蔵のとき、自己にも覆蔵し、佗人にも覆蔵す。しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢。いはんや、雲居高祖いはく、たとひ仏法邊事を学得する、はやくこれ錯用心了也。
しかあれば、半枚学仏法邊事、ひさしくあやまりきたること日深月深なりといへども、これ這皮袋に撞入する狗子なるべし。知而故犯なりとも有仏性なるべし。“

 

「趙州の真際大師に、ある僧が問うた。狗子にもまた仏性が有るのでしょうか、無いのでしょうか。
この問いの意味するところを明確にしなければならない。狗子とは犬である。(僧は、)それに仏性はあるでしょうと問わず、無いでしょうとも問うていない。これは、(真際大師のように)修行に打込んでいる者もまだ、仏のみちびく道について学ぶべきことがあるのかと問うているのだ。
(この僧が)うっかり問答をしかけて真際大師の手中に落ちるのは、なんとも仕様もない有様だが、(真の学徒に出会うのを三十年待ったという石鞏禅師の故事のように)、三十年待って、ようやく見込みのある弟子に出会うような風情も感じる。
真際大師は、無と言われた。この言葉を聞いて、学ぶべき道筋がある。仏性が自ら言う無もこのようであるし、狗子が自ら述べる時もこのように言うであろうし、それらを観察した者が(その有様を)伝えようと述べる無もこのような言葉であろう。
(このことをよく考究し実践し続ければ、)ここで言う無について、(磨き続ければ、)いつか石が擦り減って消えるように会得する時も来るだろう。
僧は言った。一切衆生は、みな仏性有りといいます。なぜ狗子にだけ無いのですか。
ここで(僧が問うている)肝要は、一切衆生が無ならば、仏性も無であるはずだし、狗子も無であるはずだということである。その肝要はどういうことかというのである。
(一切衆生は無であるという前提に立てば、)狗子や仏性はもうすでに無ではないかと問うているのである。
真際大師は言われた。(狗子が無でないのは、それに)爲佗有(他に依存して現れる存在)、業識(業によって生じた識)が在るからだ。
この言葉について注意すべきなのは、爲佗有は業識であり、業識があり、爲佗有であろうとも、狗子は無であり、仏性は無であるということである。

(それに対して、)業識(に依った見方であるかぎり)は、いまだに狗子(の存在の真実)を会得することはなく、狗子(という存在)は仏性であると、どうして納得することができようか。たとえ、狗子や仏性を(有であるとか、無であるとか)いずれの様に言ったり聞いたりしても、なおこれは業識にとらわれているのである。
趙州の真際大師に問う僧があった。狗子にもまた仏性が有るのでしょうか、無いのでしょうか。
このように問うているのは、この僧が真際大師が答えるに足る道理を問題にしているということだ。このように、仏性について語ること、問うことは歴代の祖師方に常に問題にされてきたことである。
真際大師はいわれた。有、と。
ここで言う有とは、文字や言語で教えを説く宗派の論説者のいう有ではなく、説一切有部の部派仏教の教説にいう有ということではない。
よく集中して仏の(智慧によって示される)有を学ばなければならない。仏の(智慧によって示される)有は、真際大師(が示しているところ)の有であり、真際大師の有は、狗子(という事物存在)の有であり、狗子の有は、仏性としての有である。
僧は言った。すでに有るなら、なぜこのような犬の体に入ったのでしょうか。
この僧の言っていることは、いま有るのか、以前から有るのか、そもそも有るのかと問うてるのだ。そもそも有ると言うことは、それ以外の有と似てはいるが、そもそも有るということは、それらとは明らかに別のものである。
そもそも有ることが、何かの体に入る(事物存在として現成する)べくして入るものか、あるいはそうであってはならないものか。
何かの体に入るという振舞いは、ただ単に間違ったことではない。
真際大師はいわれた。それ(犬)は(間違いだろうかと)分かった上でそのように振舞うのである。
この言葉は、世の言い回しとして昔から広く使われているが、ここでは真際大師の言われたこと(の意味を問わなければならないの)である。
ここで言われているのは、分かっていながらあえてそのように振舞うというのである。この言葉に、疑いや引っかかりを感じないものはすくないであろう。
ここで、入(入る)という一字を明らかにすることは難しいことではあるが、この入の一字にこだわるまでもないのである。
まして、欲識庵中不死人、豈離只今這皮袋である。(庵中不死の人を識しらんと欲すれば、あに只今の皮袋を這れんや。石頭希遷「石頭草庵歌」の言葉。仏性の真相を知ろうとする時、どうして今現在の(我が身の)事物存在を離れる必要があるのか)不死の人は、たとえ誰であろうとも、いつ事物存在を離れることがあるというのか。
あえてそのように振舞うということは、かならずしも体に入るということではないし、何かの体に入るということは、かならずしも分かっていながらあえてそのように振舞うということではない。
知っているゆえに、あえてそのように振舞う(と見る)べきなのである。
しらなければならない、このあえてそのように振舞うことは、すなわち本来、事物存在から離れた仏性の有様を(事物存在の中に)包み隠すであろう。これを、何かの体に入る、と説いているのである。
事物存在から離れた仏性の有様が、まさに(このように)包み隠される時、自己(の認識)に対しても包み隠され、他人(の観察)に対しても包み隠される。
しかもそのように見たとしても、(その様相を)いまだに(そのような認識、観察から)逃れていない、と言ってすますような不徹底な態度であってはならない。ましてや、雲居道膺禅師が言われたように、たとえ仏の教えの細々した知識を学び得ても、うかうかと、その心の用い方を間違ってしまうようなことではならないのである。
そうであれば、半端に仏の教えの細々とした知識を学んで、長いあいだ間違い続けて月日を重ねているとしても、これは何かの体に入る(という事物存在としての)狗子(のようなものであると自己を観察することが肝要)であろう。
(そうであれば、事物存在として)分かっていながらあえてそのように振舞っていても、(仏の言う意味での)有としての仏性(を観得しているといえる)であろう。」