【私訳 大悟 草案本】 その2
“しるべし、藎地<に>不<悟>者なきがゆへに、待悟は齊限なるのみなり。<待悟>の齊限なる、待悟に滞累することを辭せずといへども、待悟に親切ならず。をほそ、<大>悟は、不拘小節なり。
曹谿のいはく、大悟は不拘小節。又、永嘉眞覺大師のいはく、大象は不遊於兎徑、<と>。
大悟<不>拘<於小>節、いはゆる小節は、報化佛顯なり、等覺・妙覺、始覺・本覺、有覺・無覺等なり、法身<有>病・法身無病等なり、佛向上・佛邊求等なり、無始無終・有始有終等なり、すなはち、大悟なり、といふにあらず。
藎<界>に<不>悟者<を>もとむるに難得なり、と道取<する>なり。しかあれば、前程に大悟のあるべから<ざる>にはあらず。不悟者とならむことは、いまだしきなり。進一歩も藎地なり、退一歩も藎地なり、歩一歩も藎地なり、歩獨歩藎地なるべし。
京兆華嚴寺休靜禪師に僧問、大悟底人却迷時如何。師云、破鏡不照、<落華>難上樹。
この道理、しづかに悟取すべし。百億身<を>究藎しても悟取し、換面囘しても悟取<し>、十千界を經歴しても悟取すべし、直趣萬年にも悟取すべし、一念にも悟取し、毫忽地にも悟取すべし。“
「知らなければならない。大地のすべてに悟らない者はいないのであるから、悟りを待つこと(悟を得ることを目的とすること)は、(悟りにだんだん近づいていくという、仮設された)段階的な道程でしかないのである。(このように)悟りを待つことは段階的な道程であるから、悟りを待つことへのこだわりは全く無駄といわないまでも、悟りを得ることに徹底しているとはいえない。実に、大いなる悟りは(大小、前後といった段階的な)小さな区別にとらわれないのである。
六祖慧能禅師はいわれた。「大いなる悟りは、小さな区別にとらわれない」と。また、永嘉真覚大師はいわれた。「大きな象はウサギの(通るような小さな)道は行かない」と。
大いなる悟りは小さな節々にとらわれない。
ここでいう小さな節々とは(いろいろな)事象に仏が顕われている(と見る)とか、(大いなる悟りは)等覚と妙覚のいずれであるのか、始覚であるのか本覚であるのか、有覚であるのか無覚であるのか等(を分別すること)であり、法身に悟りへの執着があるのか、無いのか等(を分別すること)であり、仏の境地に上って行くと考えたり、ここ以外のどこかに仏の境地を求めたり、始まり無く終わりも無い(仏の智慧)と始まりが有り終わりが有る(個々の経験)等(を分別すること)である。
(これらの知覚は)つまり、大いなる悟りといえるものではない。
すべての境界に悟らない者を探すのは非常に困難であると言い得る。そうであれば、ここであげたさまざまな道程に、大いなる悟りはあり得ないということではない。悟らない者である、というのはまだ達していないということである。(であるから)一歩を進めることも大地のすべてに向かっている。一歩を退くのも大地のすべてに向かっている。一歩進める歩みが大地のすべてに向かっている。一歩の歩みそのものが大地のすべてに向かっているのである。
京兆(現在の陝西省西安市)の華厳寺におられた宝智禅師<洞山良价禅師の嗣法の弟子。諱は休静>に、ある僧が問うた。「大悟底人却迷時如何(大悟底人却つて迷ふ時如何。大いなる悟りを得る人はかえって迷うとはどういうことでしょうか)」と。
禅師はいわれた。「破鏡不照、落華難上樹(破鏡は照らさず、落花樹に上り難し。割れた鏡は照らさず、落ちた花は樹に上り難い)」と。
この道理を冷静に悟り得なければならない。百億の身(生命存在)を極め尽くしても悟り得て、無数の境界を輪廻しても悟り得て、無数の世界を遍歴しても悟り得なければならない。一万年を費やしても悟り得なければならない。一念にも悟り得て、無限に小さな時間空間においても悟り得なければならない。」