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ボケ防止のために勉強したあれこれを記録しています。

道元『正法眼蔵』 【私訳 大悟 草案本】 その5

【私訳 大悟 草案本】 その5

 

“しかあればすなわち、却迷は不悟にあらず、大悟は盡地なるべし。却迷と問する宗旨、これを單傳せる問旨は、大悟底人却迷悟如何といはむがごとし。問頭、<かく>のごとく問取すといゑども、問法にも、<かく>のごとく聽取するなり。聲現のときも、かくのごとく現前するなり。修行辨道にも、かくのごとく辨道するなり。
しかあればすなわち、不悟にあらざれども、大悟す、不迷なりといゑども、大悟するなり。しるべし、まどひを旋擧<して>さとりとするにあらず、不悟にあらざれども大<悟>あり。さとりを磨󠄁抹してまどひとするにあらず、大悟底人却迷如何なり。相卽にあらず、無罣礙にあらざるなり。“

 

「そうであればつまり、却って迷うことは悟らないということではなく、大いなる悟りはこの世界のすべて(のいずこでも生じるの)である。(ここで語っている僧が問うように)却って迷うことを問う意味と、これを(諸仏、諸祖が連綿として)一筋に問い続けてきた意義は、「“大いなる悟りを得た者が却って迷う”という悟りはどういうものか」と言っているのである。言葉にすればこのように言い来たることになるが、(それだけではなく)仏の真理を尋ねる時にもこのように聞き取るのである。声にあらわす時にもこのように現前させるのである。修行し仏の道につとめる時にも、このようにつとめるのである。
そうであるからすなわち、(却って迷うということは)悟らないということではないけれども、大いなる悟りがあるのである。迷うことがないとしても、大いなる悟りがあるのである。
しらなくてはならない。惑いをすり減らして悟りとするのではない。迷うことはないとしても、大いなる悟りがあるのである。(逆に)悟りを磨り減らして惑いとなるのではない。大いなる悟りを得る人が却って迷うとはどういうことかというのである。(迷いと悟りは)たがいに融け合っているのではなく、(たがいに)妨げないということではない。」

 

道元『正法眼蔵』 【私訳 大悟 草案本】 その4

【私訳 大悟 草案本】 その4

 

“經師・論師等、みだりに迷覺一如のことばに醉狂せる<は>、あるいはいふ、永劫に迷妄してさらに出離解脫すべからず、迷悟一如なり、と。あるいはいふ、生なし、佛なし、かるがゆへに迷悟不二なり。あるいはいふ、<無>覺なり、本覺なるがゆへに無迷なり、<本>來淸淨なるがゆへに。あるいはいふ、迷も菩提<なり>、覺も菩提なり。あるいはいふ、作用に迷悟<は>あれども、體性に迷悟なし。かくのごとくの頻族は、世界に稻麻竹葦なり。しか<あれども>、佛佛祖祖の家業を正聞せる種草<には>あらざるなり。
いま、僧の問處を捜尋して、佛の家業を辨究せむとするに、大悟底人却迷時如何と問すれば、大悟底人迷時<あ>り、とはとわず、なる、とはとわず。又、大悟もあり、とはとわず、なし、ととわず、却迷あり、とはとわず、なし、とはとわず、大悟底人却迷時如何と<と>ふなり、と動著せず、參究すべし。動著すれば、柱杖三十なり。
又、大悟却迷、といふ<とき>、大悟の破滅して大迷は出現する、とは<いわざる>なり、この宗旨、審細にすべし。しるべし、大悟たとひ却迷すといふとも、すなはち大悟<の>迷なり。天魔󠄁・外道の認ずる大悟なるべからず、却迷なるべからず、大悟却迷なり。十聖・三賢の認ずるに、一二にあらず、いはゆる、千迷萬迷は大悟却迷なり、と參學するなり。大迷<の>千發萬發、たとひ大地なりとも、不悟者<難>得なるべし。この道は、外道のしるにあらず、ただ佛道のみにあり。“

 

「経師、論師等といわれる者が、いたずらに迷いと悟りは同じであるという言葉におぼれる様は次のようである。たとえば、(人間は)永遠に迷い妄想にとらわれて、煩悩を離れ解脱することはできない(と納得することが悟りである。だから、)迷いと悟りは同じである、と言う。あるいは、(そもそも)生(という営み)はない、仏(という教えの真理)もない、そうであるから迷いと悟りは別のものではない。あるいは、(そもそも)覚るべきものはない、もともと覚っているのだから迷いもない、(生命は)本来清浄なものだからである。あるいは、迷いも仏の智慧である、覚りも仏の智慧である。あるいは、言動の用い方に迷いや悟りはあるが、言動そのものに迷いも悟りもない、などと言う。
このように次々あらわれる言葉は、この世界に葦や竹の藪のようにはびこってる。そうではあるが、(これらの言葉は)諸仏、諸祖の行履を正しく聞く手がかりではないのである。
ここで、僧が問うところを探しもとめて、仏の行履を究めようとするなら、「大悟底人却迷時如何(大悟底人却つて迷ふ時如何。大いなる悟りを得る人はかえって迷うとはどういうことでしょうか)」と問う時、(それは)「大悟底人迷時あり(大いなる悟りを得る人が迷う時がある)」とは問わず、「大悟底人迷時なる(大いなる悟りを得る人が迷う時になる)」とは問わない。また、大いなる悟りもありとは問わず、なしとは問わない。却って迷うことがあるとは問わず、なしとは問わない。「大悟底人却迷時如何(大悟底人却つて迷ふ時如何。大いなる悟りを得る人は却って迷うとはどういうことでしょうか)」と問うているのだ、と簡単に思い込むことなく、参学し考究しなければならない。(そのように)簡単に思い込むことは、柱杖で三十回叩かれる(ように厳しく戒められなければならない)のである。
また、大いなる悟りから却って迷う、という時、大いなる悟りが破滅して大いなる迷いが出現するとはいわないのである。この意味するところを細密につまびらかにしなければならない。

知らなければならない、大いなる悟りから却って迷うといっても、(それは)つまり大いなる悟り(によって導出されるところ)の迷いなのである。天魔や外道が(誤って)認識するように大いなる悟りが(孤立して)あるはずもなく、却って迷うことが(孤立して)あるはずもない。大いなる悟りから却って迷うのである。
十聖(菩薩の十地)、三賢(菩薩の十住、十行、十回向)といった菩薩道を修する者の認識にあっても、(大いなる悟りと却って迷うことは)一二(と数えられるような個別のもの)ではない。いわゆる「千迷萬迷(迷いに迷いを重ねること)」とは大いなる悟りから却って迷うことである、と参学するのである。
大いなる迷いが無数に現れ出るのが、この世界であるとしても、(この世界に)悟らない者を得ることは難しいのである。この道理は、仏の教えに外れた者が知るところではない。ただ、仏の導く道にのみあるのである。」

道元『正法眼蔵』 【私訳 大悟 草案本】 その3

【私訳 大悟 草案本】 その3

 

“しばらく師の宗旨の<□□□>と摸索せむとするに、さきより摸<索す>べき僧問あり。そのこころは、この問話僧は、<飽參>叢林の雲衲なるべし。
しかあるに、大悟底人却迷時<如>何、と問取するに、華嚴きらはず、叢林わらはぬ、すなはち問<ふべ>きを問し、ならひきたれるを露膽するなるべし。これをもて參究するに、佛佛祖祖の家風・道業には、大悟底人却迷を單傳の懐業とせり。
いま、西天より傳來せると自稱する經師・論師の立せる家門には、大悟・大覺・却迷とはいわず。大悟・大覺の前程、いまだその落處の<種草>になるをしらず。ゆへに、大迷の以前、<知る>なし、大悟のをはりをしらず。大迷のはじ<めを>しらざるがゆへに、大悟をもしらず、大迷を<もし>らざるなり。ゆへにそこばくの謗法となる。永嘉いはく、欲得不招世間業、莫謗如來正法輪なり。“

 

「ここで、禅師の言葉の趣旨の□□□(原文欠落)を推考しようとする時、(それより)先に推考しなければならないのは、(この)僧の問いについてである。なぜならば、この話で問うている僧は、修行道場で長く修行している者であるはずだからである。
そうであるのに、「大悟底人却迷時如何(大悟底人却つて迷ふ時如何。大いなる悟りを得る人はかえって迷うとはどういうことでしょうか)」と問い来た時、禅師は避けられる事無く、修行道場の大衆も軽んじることはなかった。つまり、(この問いは)問うべきことを問うているのであり、修行の中で育んできたありのままの問いを述べているだろうからである。この事をもって參究すると、諸仏、諸祖の伝えられた修行の在り方、仏道修行の方法は、「大悟底人却迷(大いなる悟りを得る人はかえって迷う)」ということを専一の心得としてきたのである。
今、インドから伝え来たったと自称する経師、論師が立てた宗派では、大いなる悟り・大いなる覚醒・却って迷うこと(が一連のものである)ということをいわない。大いなる悟り、大いなる覚醒の道程が、(却って迷うという)帰着への契機になることがまだ分かっていない。そうであるから、大いなる迷いの前提(である大いなる悟りや大いなる覚醒)を知ることがなく、大いなる悟りがどこに帰着するのかを知らない。大いなる迷いの発端を知らないから、大いなる悟りも知らないし、大いなる迷い(がどういうものか)も知らないのである。
このために、はなはだしく仏法を謗ることになるのである。
永嘉玄覚禅師がいわれるとおり、「欲得不招世間業、莫謗如來正法輪(無間の業を招かざることを得んと欲はば、如来正法輪を謗ずること莫れ。無間地獄に落ちるような悪業を呼び寄せないようにしたいならば、仏によって正しく伝えられた教えを謗ってはならない)」のである。」

道元『正法眼蔵』 【私訳 大悟 草案本】 その2

【私訳 大悟 草案本】 その2

 

“しるべし、藎地<に>不<悟>者なきがゆへに、待悟は齊限なるのみなり。<待悟>の齊限なる、待悟に滞累することを辭せずといへども、待悟に親切ならず。をほそ、<大>悟は、不拘小節なり。
曹谿のいはく、大悟は不拘小節。又、永嘉眞覺大師のいはく、大象は不遊於兎徑、<と>。
大悟<不>拘<於小>節、いはゆる小節は、報化佛顯なり、等覺・妙覺、始覺・本覺、有覺・無覺等なり、法身<有>病・法身無病等なり、佛向上・佛邊求等なり、無始無終・有始有終等なり、すなはち、大悟なり、といふにあらず。
藎<界>に<不>悟者<を>もとむるに難得なり、と道取<する>なり。しかあれば、前程に大悟のあるべから<ざる>にはあらず。不悟者とならむことは、いまだしきなり。進一歩も藎地なり、退一歩も藎地なり、歩一歩も藎地なり、歩獨歩藎地なるべし。
京兆華嚴寺休靜禪師に僧問、大悟底人却迷時如何。師云、破鏡不照、<落華>難上樹。
この道理、しづかに悟取すべし。百億身<を>究藎しても悟取し、換面囘しても悟取<し>、十千界を經歴しても悟取すべし、直趣萬年にも悟取すべし、一念にも悟取し、毫忽地にも悟取すべし。“

 

「知らなければならない。大地のすべてに悟らない者はいないのであるから、悟りを待つこと(悟を得ることを目的とすること)は、(悟りにだんだん近づいていくという、仮設された)段階的な道程でしかないのである。(このように)悟りを待つことは段階的な道程であるから、悟りを待つことへのこだわりは全く無駄といわないまでも、悟りを得ることに徹底しているとはいえない。実に、大いなる悟りは(大小、前後といった段階的な)小さな区別にとらわれないのである。
六祖慧能禅師はいわれた。「大いなる悟りは、小さな区別にとらわれない」と。また、永嘉真覚大師はいわれた。「大きな象はウサギの(通るような小さな)道は行かない」と。
大いなる悟りは小さな節々にとらわれない。
ここでいう小さな節々とは(いろいろな)事象に仏が顕われている(と見る)とか、(大いなる悟りは)等覚と妙覚のいずれであるのか、始覚であるのか本覚であるのか、有覚であるのか無覚であるのか等(を分別すること)であり、法身に悟りへの執着があるのか、無いのか等(を分別すること)であり、仏の境地に上って行くと考えたり、ここ以外のどこかに仏の境地を求めたり、始まり無く終わりも無い(仏の智慧)と始まりが有り終わりが有る(個々の経験)等(を分別すること)である。
(これらの知覚は)つまり、大いなる悟りといえるものではない。
すべての境界に悟らない者を探すのは非常に困難であると言い得る。そうであれば、ここであげたさまざまな道程に、大いなる悟りはあり得ないということではない。悟らない者である、というのはまだ達していないということである。(であるから)一歩を進めることも大地のすべてに向かっている。一歩を退くのも大地のすべてに向かっている。一歩進める歩みが大地のすべてに向かっている。一歩の歩みそのものが大地のすべてに向かっているのである。
京兆(現在の陝西省西安市)の華厳寺におられた宝智禅師<洞山良价禅師の嗣法の弟子。諱は休静>に、ある僧が問うた。「大悟底人却迷時如何(大悟底人却つて迷ふ時如何。大いなる悟りを得る人はかえって迷うとはどういうことでしょうか)」と。
禅師はいわれた。「破鏡不照、落華難上樹(破鏡は照らさず、落花樹に上り難し。割れた鏡は照らさず、落ちた花は樹に上り難い)」と。
この道理を冷静に悟り得なければならない。百億の身(生命存在)を極め尽くしても悟り得て、無数の境界を輪廻しても悟り得て、無数の世界を遍歴しても悟り得なければならない。一万年を費やしても悟り得なければならない。一念にも悟り得て、無限に小さな時間空間においても悟り得なければならない。」

道元『正法眼蔵』 【私訳 大悟 草案本】 その1

【私訳 大悟 草案本】 その1

 

※    < >内は原本破損のために不明・判読されたもの。

“佛佛の大道、つたはること綿蜜なり、功業、現成なること、平展なり。このゆへに、大悟あり、不悟あり、省悟あり、失悟あり。ともにこれ佛祖、あるときは抛却し、あるときは把定するところなり。抛却、および把定にあら<ず>、泥團の形段も現状せり。
しるべし、大悟<より>、諸佛諸祖は恁麼來なり。ゆへに、大悟<は>、佛祖の邊際にかかはれるにあらざるなり。
しかあるに、あるいは、生知ありという、いはゆる生じて生を知るなり。學而知者ありという、學して生をしるなり。佛智者ありといふ、無師智者ありというとも、三擧に囘去する、行履の條條なり。
生知あれば、生悟あるべし。佛祖すでに調御丈夫とあるに、みな生悟な<るを>拈來せるがゆへに、學道、大悟する生悟なるべし、學悟する、生悟なるべし。學悟なる<が>ゆへに、いま三界を擧して大悟<し、四>大<を擧>し<て>大悟とし、諸佛を擧して大悟<し>、諸法擧して大悟し、諸縁を擧し<て大>悟しきたれること、いますなはち正當恁麼時なり。
このゆへに、臨濟院の慧照大師いはく、藎大地覓に、一人として不悟者難得。
しかれば、藎地にあらゆるは、不悟<者>にはあらざるべし。悟を、齊限とせむともがらは、休歇<す>べし、悟、これ齊限にあらざるがゆへに。不悟者、かならずしも悟者にあらず。悟のうへにも、さ<らに>進一歩するに、朝到西天暮到唐土あるなり。十聖・三賢、等覺・妙覺等は、ひと<へに>待悟<爲>則<な>るのみなり。かれらに悟なし<と>い<は>ず、待悟するのみなり。“

 

「歴代の諸仏が完成した真理の道は綿密に伝えられ、成し遂げられた成果が現成する様相は、いずれ(の諸仏に)も同じようにみられる。このようであるから、大きなる悟りがあり、悟らぬことがあり、悟りについてあれこれ参学することがあり、悟りへの執着を失うことがある。これはともに諸仏、祖師方が、ある時は放ち捨て、ある時は保持してきたところである。(また、)放ち捨てるのでもなく、保持するのでもなく、混沌とした様相で現成することもある。
しらなければならない、大いなる悟りを知覚した後の諸仏、祖師方はこのような行跡をたどられたのである。であるから、大いなる悟りは、諸仏、祖師方の(個々の成果の)範囲に限られるものではないのである。
そうではあるが、たとえば、生知というものがある。これは(生まれながらにそなわるもので、)生ずると生(とは何か)を知るのである。(また)学而知者というものがある。学んで生(とは何か)を知るのである。仏智というものがり、無師智というものがあるが、(それぞれ)三つの(それぞれの)様相に帰されるものであり、(諸仏、祖師方のそれぞれの)行状のそれぞれの現われである。
生知があるなら、悟りが生じなければならない。諸仏、祖師方はすでに調御丈夫(悟りを完成して伝える者)であることは、みな悟りを生ずるごとくあれこれと参究してきたからである。仏道を学ぶことは、大いなる悟りを得る正悟であらねばならず、悟り(とは何かということ)を学ぶことは、(単なる知識として知るのではなく)悟りを生ずることである。
(このように)悟りを学ぶのであるから、いまや三界(欲界、色界、無色界)を参学して大いなるさとりを得ること、四大(地、水、火、風)を参学して大いなるさとりを得ること、諸仏を参学して大いなるさとりを得ること、あらゆる事物現象を参学して大いなるさとりを得ること、あらゆる因果を参学して大いなるさとりを得ること、これらはすなわち、この時この場(の現成)なのである。
このために、臨済寺におられた慧照大師(臨済義玄)は言われた。「大地のすみずみまで探しても、悟らない者は一人として得難い」と。
そうであるなら、大地のすべてのものは悟らない者ではありえないだろう。悟りを、(悟った、悟っていないという)区別があるのだとする者たちは、(そのような考えを)止めなければならない。悟らない者は、かならずしも(悟った、悟っていないという区別を前提とした時の)悟った者(の対概念として問題となるの)ではない。悟りを得た上に、さらに一歩を進めるならば、朝到西天暮到唐土(朝は西天に到り、暮には唐土に到る。とらわれを離れて自在に為すの意)となるのだ。

十聖・三賢、等覚・妙覚など(菩薩道の修行は階梯に区切られていると考える)のは、つまりは待悟爲則(悟を待つを則と為す。悟りを得ることを目的とし、得られた後は修行は不要とする意)であるだけなのだ。そうしたものに悟りが無いというのではない。悟りが目的となり、修行がただ手段となっているのだ。」

道元『正法眼蔵』 【私訳 大悟】 その5(終)

【私訳 大悟】 その5(終)

 

“京兆米胡和尚、令僧問仰山、今時人、還假悟否。仰山云、悟即不無、争奈落第二頭何。僧廻擧似米胡。胡深肯之。いはくの今時は、人人の而今なり。令我念過去未来現在いく千萬なりとも、今時なり、而今なり。人の分上は、かならず今時なり。あるいは眼睛を今時とせるあり、あるいは鼻孔を今時とせるあり。
還假悟否。この道をしづかに參究して、胸襟にも換却すべし、頂𩕳にも換却すべし。近日大宋國禿子等いはく、悟道是本期。かくのごとくいひて、いたづらに待悟す。しかあれども、佛祖の光明にてらされざるがごとし。ただ真善知識に參取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。古佛の出世にも度脱せざりぬべし。いまの還假悟否の道取は、さとりなしといはず、ありといはず、きたるといはず、かるやいなや、といふ。今時人のさとりはいかにしてさとれるぞ、と道取せんがごとし。たとへば、さとりをう、といはば、ひごろはなかりつるかとおぼゆ。さとりきたれり、といはば、ひごろはそのさとりいづれのところにありけるぞ、とおぼゆ。さとりになれり、といはば、さとり、はじめありとおぼゆ。かくのごとくいはず、かくのごとくならずといへども、さとりのありやうをいふときに、さとりをかるや、とはいふなり。
しかあるを、さとりといふは、第二頭へおつるをいかんがすべき、といひつれば、第二頭もさとりなり、といふなり。第二頭といふは、さとりになりぬる、といひや、さとりをう、といひや、さとりきたれり、といはんがごとし。なりぬ、といふも、きたれり、といふも、さとりなりといふなり。しかあれば、第二頭におつることをいたみながら、第二頭をなからしむるがごとし。さとりのなれらん第二頭は、またまことの第二頭なりともおぼゆ。しかあれば、たとひ第二頭なりとも、たとひ百千頭なりとも、さとりなるべし。第二頭あれば、これよりかみに第一頭のあるをのこせるにはあらぬなり。たとへば、昨日のわれをわれとすれども、昨日はけふを第二人といはんがごとし。而今のさとり、昨日にあらずといはず、いまはじめたるにあらず、かくのごとく參取するなり。しかあれば、大悟頭黑なり、大悟頭白なり。

 

正法眼蔵大悟

 

爾時仁治三年壬寅春正月二十八日、住観音導利興聖宝林寺示衆。
而今寛元二年甲辰春正月二十七日、駐錫越宇吉峰古寺而書示於人天大衆。
同二年甲辰春三月二十日、侍越宇吉峰精舎堂奥次書寫之、懐弉。“

 

 

「京兆(現在の陝西省西安市)におられた米胡和尚が、ある僧をつかわして仰山禅師に訊ねられた。「今どきの人は、かえって仮の悟りを得るということか、否か」と。
仰山禅師はいわれた。「悟りはたしかに無いわけではないが、その優劣を争うようなことはどうしたものか」と。僧がもどってそのように申し上げると、米胡和尚はこれに深く頷かれた。
ここでいう今どきというのは、それぞれの個々人に現れる今現在ということである。令我念過去未来現在(我に過去現在未来を念ぜしむ。他ならぬ自分自身が感じ取る過去現在未来)が、(時間軸上で)幾千万回あったとしても、(問題となるのは)今どき(のみ)であり、今現在(のみ)である。人の生命存在は、かならず今どき(として問題になるので)ある。(たとえば、)あるいは目(にものがうつる瞬間)を今どきとすることがあるし、あるいは鼻(にものが香る瞬間)を今どきとすることがあるのである。
「かえって仮の悟りを得るのか、否か」。この言葉を冷静に参究して、胸の内にも解きほぐさなければならず、念頭にも解きほぐさなければならない。
この頃の大宋国の僧侶達は、「悟道是本期(悟道はこれ本期なり。悟りに至る道は、この通りただ一筋で間違いない)」という。このようにいって、ただ悟りがおとずれるのを待っている。それなのに、諸仏、祖師方の(受け継がれた智慧の)光明に照らされているようには見えない。ひたすらに真の智慧を得た先達に参学して会得すべきなのに、怠惰で無駄にすごしている。(たとえ)釈尊がこの世に現れても、煩悩をはなれ解脱させることはできないだろう。
ここで、「かえって仮の悟りを得るのか、否か」といわれているのは、悟りが無いといわず、有るといわず、来るといわず、仮に得るかということである。今どきの人の悟りはどのようにして悟られるのかといわれているのである。
たとえば、悟りを得る、といえば平生は悟りは無いものなのかと捉えてしまう。悟りが来た、といえば平生はその悟りはどこにあるのかと考えてしまう。悟りになった、といえば、悟りには発端があるのかと思ってしまう。これらのようにはいえないし、このようではないのだが、悟りの有り様をいう時に、仮に悟るだろうか、とはいえるであろう。
これにたいして、悟りといっているのに、次点の境地に落ちるのはどうだろうか、といわれたなら、次点の境地も悟りである、というのだ。
次点の境地というのは、悟りになった、ということであり、悟りを得た、ということであり、悟りが来た、というようなことである。なった、というのも、来た、というのも悟りであるということになる。
そうでなければ、次点の境地に落ちることを悔やんで、次点の境地は(意味が)無いとするようなものである。(だが、それ自体)悟りである次点の境地は、(それはそれで)また真の次点の境地であると考えられる。そうであれば、たとえ次点の境地であっても、たとえ何百何千も下位の境地であっても、悟りでなければならない。
次点があれば、その上に上位の余地が(続いて)あるということではない。たとえば、昨日の私を私であるとはいうが、昨日からみて今日を次の私とはいわないようなものである。
今この時の悟りは、昨日にはなかったとはいえないし、今に始まったものでもないと、このように参究し会得するのである。
そうであれば、大いなる悟りは(時に)黒くもあり、大いなる悟りは(時に)白くもある(硬直した単一のものではない)のである。

 

正法眼蔵 大悟の巻

 

仁治3年(1242年)1月28日、観音導利興聖宝林寺に在る時、大衆に示した。
寛元2年(1243年)1月27日、越前の吉峰寺において広く大衆に書き示した。
同年3月20日、吉峰寺にて懐弉がこれを書き写した。」

 

 

 

-- 私訳 正法眼蔵・大悟(終) --

道元『正法眼蔵』 【私訳 大悟】 その4

【私訳 大悟】 その4

 

“師云、破鏡不重照、落花難上樹。この示衆は、破鏡の正當恁麼時を道取するなり。しかあるを、未破鏡の時節にこころをつかはして、しかも破鏡のことばを參學するは不是なり。いま華嚴道の破鏡不重照、落花難上樹の宗旨は、大悟底人不重照といひ、大悟底人難上樹といひて、大悟底人さらに却迷せずと道取すると會取しつべし。しかあれども、恁麼の參學にあらず。人のおもふがごとくならば、大悟底人家常如何とら問取すべし。これを答話せんに、有却迷時とらいはん。而今の因縁、しかにはあらず。大悟底人却迷時如何と問取するがゆゑに、正當却迷時を未審するなり。恁麼時節の道取現成は、破鏡不重照なり、落華難上樹なり。落華のまさしく落華なるときは、百尺の竿頭に昇進するとも、なほこれ落華なり。破鏡の、正當破鏡なるゆゑに、そこばくの活計見成すれども、おなじくこれ不重照の照なるべし。破鏡と道取し落華と道取する宗旨を拈来して、大悟底人却迷時の時節を參取すべきなり。
これは、大悟は作佛のごとし、却迷は衆生のごとし。還作衆生といひ、従本垂迹とらいふがごとく學すべきにはあらざるなり。かれは、大覺をやぶりて衆生となるがごとくいふ。これは、大悟やぶるるといはず、大悟うせぬるといはず、迷きたるといはざるなり。かれらにひとしむべからず。まことに大悟無端なり、却迷無端なり。大悟を罣礙する迷あらず、大悟三枚を拈来して小迷半枚をつくるなり。ここをもて、雪山の雪山のために大悟するあり、木石は木石をかりて大悟す。諸佛の大悟は、衆生のために大悟す、衆生の大悟は、諸佛の大悟を大悟す、前後にかかはれざるべし。而今の大悟は、自己にあらず佗己にあらず、きたるにあらざれども填溝塞壑なり。さるにあらざれども切忌随佗覓なり。なにとしてか恁麼なる。いはゆる随佗去なり。”

 

「大師はいわれた。「破鏡不重照、落花難上樹(破鏡、重て照さず、落花、樹に上がり難し。割れた鏡はかさねて照さない、落ちた花は樹に上りがたい)」と。ここで大衆に示されているのは、鏡が割れているまさにこの時に言い得たことである。そうであるのに、まだ割れていない時の鏡を思い浮かべて、割れた鏡の話を聞き参学しようとするのは正しくない。ここで、慧照大師が破鏡不重照、落花難上樹といわれた主旨は、大いなる悟りを得た人は重て照らさずといい、大いなる悟りを得た人は樹に上り難いといい、大いなる悟りを得た人はさらに、かえって迷うことはないと言い定めていると受け取ってしまうだろう。そうであるが、そのような参学ではならないのである。
(もし)人がそう思うならば、大いなる悟りを得た人の常の境涯はどうでしょうかと問い来たらなければならない。これに答える話としては、かえって迷う時があると言うべきだろう。(しかし、)今ここの因縁は、そうではないのだ。大いなる悟りを得た人がかえって迷う時とはどのようかと問うゆえに、かえって迷う、まさにその時をどういうものかと吟味するのである。そのような時に現成し言い得るのは、割れた鏡は重ねて照らさないということであり、落ちた花は樹に上り難いということである。落ちた花がまさしく落ちた花であるときは、(たとえ)百尺の竿の先の高さに上っていたとしても、なおこれは落ちた花である。割れた鏡は、ほかでもない割れた鏡であるために、いくらかの働きは見出すことはできるとはいえ、(落ちた花の有り様と)同様に、これは重ねて照らすことができない(という有り様の)照らすことでなければならない。割れた鏡と言い得て落ちた花と言い得る説理をに取り組んで、大いなる悟りを得た人がかえって迷う時、まさにその時(とはどういうことか)と参学し会得しなければならない。
これは、大いなる悟りは仏になることを目的としており、かえって迷うことは(無明にとらわれた)衆生に止まっているように見える。還作衆生(還つて衆生と作る。悟りの境地が進むことで衆生のありのままを肯定的にとらえる)といったり、従本垂迹(本より迹を垂る。仏の悟りが衆生のありのままの形をかりて現れている)などというように学ぶということではない。このようにいう者は、大いなる仏の智慧を打ち破って衆生(のありのままの姿)になるかのようにいう。それでは、大いなる悟りを破るといっているのではなく、大いなる悟りが消え失せるといっているのではなく、迷いが(かえって)来るといっているのでもない。このような者と同等であってはならない。
実に、大いなる悟りは(ここが究極の境地であるというような)際限があるものではなく、かえって迷うことにも際限はない。大いなる悟りを妨げる迷いというものはないのであり、大いなる悟りを三度にわたって吟味してさらに(さらなる悟りの階となる)小さな迷いの一端をつかむのである。このようであればこそ、雪山が雪山のために大いなる悟りを得ることがあり、木石は木石(の有り様)によって大いなる悟りを得ることがある。諸仏が得られた大いなる悟りは、衆生のために大いなる悟りを得られたのであり、衆生が得た大いなる悟りは諸仏の得られた大いなる悟りについて大いなる悟りを得るのであり、(諸仏が先で衆生が後というような)前後(や優劣)にこだわってはならない。
今ここの大いなる悟りは、自己のものでもなく他のものでもない。(どこか他から)もたらされた(というような借りた)ものではないゆえに、填溝塞壑(溝をうめ、壑をふさぐ。食い違うことなくぴったりと満たされている)である。(どこか他へ)去ってしまう(というような身心と分離した)ものではないゆえに、切忌随佗覓(他に随つて覓むるを切に忌む。他にたよって探し求めることを絶対に避ける)のである。
つまりこのようにあるとはどういうことか。いわゆる随佗去(他に随って去る。自他の分別を滅却する。碧巌録第29則「大隋劫火洞然」による)である。」