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ボケ防止のために勉強したあれこれを記録しています。

道元『正法眼蔵』 【私訳 大悟】 その4

【私訳 大悟】 その4

 

“師云、破鏡不重照、落花難上樹。この示衆は、破鏡の正當恁麼時を道取するなり。しかあるを、未破鏡の時節にこころをつかはして、しかも破鏡のことばを參學するは不是なり。いま華嚴道の破鏡不重照、落花難上樹の宗旨は、大悟底人不重照といひ、大悟底人難上樹といひて、大悟底人さらに却迷せずと道取すると會取しつべし。しかあれども、恁麼の參學にあらず。人のおもふがごとくならば、大悟底人家常如何とら問取すべし。これを答話せんに、有却迷時とらいはん。而今の因縁、しかにはあらず。大悟底人却迷時如何と問取するがゆゑに、正當却迷時を未審するなり。恁麼時節の道取現成は、破鏡不重照なり、落華難上樹なり。落華のまさしく落華なるときは、百尺の竿頭に昇進するとも、なほこれ落華なり。破鏡の、正當破鏡なるゆゑに、そこばくの活計見成すれども、おなじくこれ不重照の照なるべし。破鏡と道取し落華と道取する宗旨を拈来して、大悟底人却迷時の時節を參取すべきなり。
これは、大悟は作佛のごとし、却迷は衆生のごとし。還作衆生といひ、従本垂迹とらいふがごとく學すべきにはあらざるなり。かれは、大覺をやぶりて衆生となるがごとくいふ。これは、大悟やぶるるといはず、大悟うせぬるといはず、迷きたるといはざるなり。かれらにひとしむべからず。まことに大悟無端なり、却迷無端なり。大悟を罣礙する迷あらず、大悟三枚を拈来して小迷半枚をつくるなり。ここをもて、雪山の雪山のために大悟するあり、木石は木石をかりて大悟す。諸佛の大悟は、衆生のために大悟す、衆生の大悟は、諸佛の大悟を大悟す、前後にかかはれざるべし。而今の大悟は、自己にあらず佗己にあらず、きたるにあらざれども填溝塞壑なり。さるにあらざれども切忌随佗覓なり。なにとしてか恁麼なる。いはゆる随佗去なり。”

 

「大師はいわれた。「破鏡不重照、落花難上樹(破鏡、重て照さず、落花、樹に上がり難し。割れた鏡はかさねて照さない、落ちた花は樹に上りがたい)」と。ここで大衆に示されているのは、鏡が割れているまさにこの時に言い得たことである。そうであるのに、まだ割れていない時の鏡を思い浮かべて、割れた鏡の話を聞き参学しようとするのは正しくない。ここで、慧照大師が破鏡不重照、落花難上樹といわれた主旨は、大いなる悟りを得た人は重て照らさずといい、大いなる悟りを得た人は樹に上り難いといい、大いなる悟りを得た人はさらに、かえって迷うことはないと言い定めていると受け取ってしまうだろう。そうであるが、そのような参学ではならないのである。
(もし)人がそう思うならば、大いなる悟りを得た人の常の境涯はどうでしょうかと問い来たらなければならない。これに答える話としては、かえって迷う時があると言うべきだろう。(しかし、)今ここの因縁は、そうではないのだ。大いなる悟りを得た人がかえって迷う時とはどのようかと問うゆえに、かえって迷う、まさにその時をどういうものかと吟味するのである。そのような時に現成し言い得るのは、割れた鏡は重ねて照らさないということであり、落ちた花は樹に上り難いということである。落ちた花がまさしく落ちた花であるときは、(たとえ)百尺の竿の先の高さに上っていたとしても、なおこれは落ちた花である。割れた鏡は、ほかでもない割れた鏡であるために、いくらかの働きは見出すことはできるとはいえ、(落ちた花の有り様と)同様に、これは重ねて照らすことができない(という有り様の)照らすことでなければならない。割れた鏡と言い得て落ちた花と言い得る説理をに取り組んで、大いなる悟りを得た人がかえって迷う時、まさにその時(とはどういうことか)と参学し会得しなければならない。
これは、大いなる悟りは仏になることを目的としており、かえって迷うことは(無明にとらわれた)衆生に止まっているように見える。還作衆生(還つて衆生と作る。悟りの境地が進むことで衆生のありのままを肯定的にとらえる)といったり、従本垂迹(本より迹を垂る。仏の悟りが衆生のありのままの形をかりて現れている)などというように学ぶということではない。このようにいう者は、大いなる仏の智慧を打ち破って衆生(のありのままの姿)になるかのようにいう。それでは、大いなる悟りを破るといっているのではなく、大いなる悟りが消え失せるといっているのではなく、迷いが(かえって)来るといっているのでもない。このような者と同等であってはならない。
実に、大いなる悟りは(ここが究極の境地であるというような)際限があるものではなく、かえって迷うことにも際限はない。大いなる悟りを妨げる迷いというものはないのであり、大いなる悟りを三度にわたって吟味してさらに(さらなる悟りの階となる)小さな迷いの一端をつかむのである。このようであればこそ、雪山が雪山のために大いなる悟りを得ることがあり、木石は木石(の有り様)によって大いなる悟りを得ることがある。諸仏が得られた大いなる悟りは、衆生のために大いなる悟りを得られたのであり、衆生が得た大いなる悟りは諸仏の得られた大いなる悟りについて大いなる悟りを得るのであり、(諸仏が先で衆生が後というような)前後(や優劣)にこだわってはならない。
今ここの大いなる悟りは、自己のものでもなく他のものでもない。(どこか他から)もたらされた(というような借りた)ものではないゆえに、填溝塞壑(溝をうめ、壑をふさぐ。食い違うことなくぴったりと満たされている)である。(どこか他へ)去ってしまう(というような身心と分離した)ものではないゆえに、切忌随佗覓(他に随つて覓むるを切に忌む。他にたよって探し求めることを絶対に避ける)のである。
つまりこのようにあるとはどういうことか。いわゆる随佗去(他に随って去る。自他の分別を滅却する。碧巌録第29則「大隋劫火洞然」による)である。」