【私訳 仏性】その3
“仏性の言をききて、学者おほく先尼外道の我のごとく邪計せり。それ、人にあはず、自己にあはず、師をみざるゆゑなり。いたづらに風火の動著する心意識を仏性の覚知覚了とおもへり。たれかいふ、仏性に覚知覚了ありと。覚者知者はたとひ諸仏なりとも、仏性は覚知覚了にあらざるなり。いはんや諸仏を覚者知者といふ覚知は、なんだちが云云の邪解を覚知とせず、風火の動静を覚知とするにあらず、ただ一両の仏面祖面、これ覚知なり。
往往に古老先徳、あるいは西天に往還し、あるいは人天を化導する、漢唐より宋朝にいたるまで、稻麻竹葦のごとくなる、おほく風火の動著を仏性の知覚とおもへる、あはれむべし、学道転疎なるによりて、いまの失誤あり。いま仏道の晩学初心、しかあるべからず。たとひ覚知を学習すとも、覚知は動著にあらざるなり。たとひ動著を学習すとも、動著は恁麼にあらざるなり。もし真箇の動著を会取することあらば、真箇の覚知覚了を会取すべきなり。仏と性と、彼に達し、此に達すなり。仏性かならず悉有なり、悉有は仏性なるがゆゑに。悉有は百雑砕にあらず、悉有は一條鉄にあらず。拈拳頭なるがゆゑに大小にあらず。すでに仏性といふ、諸聖と齊肩なるべからず、仏性と齊肩すべからず。
ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし。法雨のうるほひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉花果、もすことあり。果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに條條の赤心なりと参究すべし。果裏に種子あり、種子みえざれども根茎等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝條大圍となれる、内外の論にあらず、古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉みな同生し同死し、同悉有なる仏性なるべし。“
「仏性という言葉を聞いて、学ぶ者の多くは仏の教えに外れた先尼(セーニャ。釈尊にアートマンを問うた異教の教説者)のいう我(アートマン。永続する実体)のようなものと誤って理解する。それは人を見ず、自己を見ず、師匠(の教え)を見ていないからである。ただいたずらに、風に吹かれる火のようにひどく揺れ動く心意識(感受し、思慮し、分別する心の諸要素)を仏性(という我が)気づきを得て悟りを開くと思っているのだ。
誰かが言うだろう、仏性とは気づきと悟りの主体(覚者、知者)であると。覚者、知者とは諸仏をこそ言うのであり、仏性は気づきや悟りの主体ではない。もちろん、諸仏を覚者、知者と言う時の気づきや悟りというものは、皆があれこれ言うような誤った理解を言うのではない。風に吹かれる火(に例える、揺れ動く心意識)の有様を言うのではない。ただ仏や祖師の現わされたものを気づきと言い、悟りというのである。
これまで、あるいは求法のためにインドへ往還し、また人界、天界の衆生を教え導く古老先徳は漢、唐の頃から今の宋の時代にいたるまで、まるで稲や麻、竹、葦が叢生するようにおられるが、多くは風に吹かれる火の揺れ動きを仏性が得る悟りだと思っている。
ざんねんなことだ。学んだものが仏のみちびく道とはるかに隔たっていたために、このような間違いがあるのだ。いま(仏のみちびく道を学ぼうと志す者は)晩学であろうと、初学であろうと、そのようであってはならない。
(それらと同じ誤った考えによって、)たとえ気づきと悟りを学び体得しようとつとめても、その気づきと悟りは(真の)心意識の働きではない。たとえ心意識の動きを学び体得しようとつとめても、心意識の働きはそのようなものではない。
もし真の心意識の働きを会得することができるなら、真の気づきと悟りを会得することができるだろう。仏の智慧と(わたしたちが理解すべき)本質には、(つきつめれば)彼が此れに到達し、此れが彼に到達するように、違いはない。
仏性はかならず、ことごとく有るものである。ことごとく有るものが仏性であるからだ。
ことごとく有るものは、ことさらに粉々に打ち砕いてひとつひとつ調べるようなものではなく、巨大な建造物を貫通する一本の鉄の綱のように事物の中に潜在するものでもない。(人が平生の動作のなかで、たまたま)拳を振り上げるようなものであるから、大きいとか小さいという(分別でとらえることができる)ものではない。
このように(見てきた、ことごとく有るものを)仏性と呼んでいるのだから、(セーニャの見解のような誤った見方を)仏や仏祖方と同等のように考えることはできない。(セーニャの見解にあるような、気づきや悟りの主体としての何ものかを)仏性と同等のものと考えてはならない。
ある人達は思うであろう。仏性は草木の種のようなものだと。仏の教えが雨のように注がれ潤されると、芽や茎が伸び、枝や葉、花、果実をつけると。その果実はまた種をやどすと。そのように理解するのは、凡夫の考えることである。たとえそのように考えたとしても、種や、花、果実はそれぞれ個別の心であるとしてその真の様相を探求しなければならない。
果実には種が隠れている。種は(割ってみても見えないが)根や茎を生やす。ことさらに種を集めて蒔いたわけでもないのに、枝々を伸ばして草叢となる。(それに対して)仏性は(種のように)内側、外側というように論ずることはできず、(枝や茎や、草叢の姿のように)古今(の時間軸の中で)存在したり、存在しなかったりということはない。
そうであれば、たとえ凡夫が理解するように(種と花、果実の関係のように)例えたとしても、根や茎、枝、葉は同じように事物存在として生滅し、同じようにことごとく有るもの、仏性であるととらえなければならない。」