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ボケ防止のために勉強したあれこれを記録しています。

道元『正法眼蔵』 【私訳 仏性】 その3

【私訳 仏性】その3

 

“仏性の言をききて、学者おほく先尼外道の我のごとく邪計せり。それ、人にあはず、自己にあはず、師をみざるゆゑなり。いたづらに風火の動著する心意識を仏性の覚知覚了とおもへり。たれかいふ、仏性に覚知覚了ありと。覚者知者はたとひ諸仏なりとも、仏性は覚知覚了にあらざるなり。いはんや諸仏を覚者知者といふ覚知は、なんだちが云云の邪解を覚知とせず、風火の動静を覚知とするにあらず、ただ一両の仏面祖面、これ覚知なり。
往往に古老先徳、あるいは西天に往還し、あるいは人天を化導する、漢唐より宋朝にいたるまで、稻麻竹葦のごとくなる、おほく風火の動著を仏性の知覚とおもへる、あはれむべし、学道転疎なるによりて、いまの失誤あり。いま仏道の晩学初心、しかあるべからず。たとひ覚知を学習すとも、覚知は動著にあらざるなり。たとひ動著を学習すとも、動著は恁麼にあらざるなり。もし真箇の動著を会取することあらば、真箇の覚知覚了を会取すべきなり。仏と性と、彼に達し、此に達すなり。仏性かならず悉有なり、悉有は仏性なるがゆゑに。悉有は百雑砕にあらず、悉有は一條鉄にあらず。拈拳頭なるがゆゑに大小にあらず。すでに仏性といふ、諸聖と齊肩なるべからず、仏性と齊肩すべからず。
ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし。法雨のうるほひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉花果、もすことあり。果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに條條の赤心なりと参究すべし。果裏に種子あり、種子みえざれども根茎等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝條大圍となれる、内外の論にあらず、古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉みな同生し同死し、同悉有なる仏性なるべし。“

 

「仏性という言葉を聞いて、学ぶ者の多くは仏の教えに外れた先尼(セーニャ。釈尊アートマンを問うた異教の教説者)のいう我(アートマン。永続する実体)のようなものと誤って理解する。それは人を見ず、自己を見ず、師匠(の教え)を見ていないからである。ただいたずらに、風に吹かれる火のようにひどく揺れ動く心意識(感受し、思慮し、分別する心の諸要素)を仏性(という我が)気づきを得て悟りを開くと思っているのだ。
誰かが言うだろう、仏性とは気づきと悟りの主体(覚者、知者)であると。覚者、知者とは諸仏をこそ言うのであり、仏性は気づきや悟りの主体ではない。もちろん、諸仏を覚者、知者と言う時の気づきや悟りというものは、皆があれこれ言うような誤った理解を言うのではない。風に吹かれる火(に例える、揺れ動く心意識)の有様を言うのではない。ただ仏や祖師の現わされたものを気づきと言い、悟りというのである。
これまで、あるいは求法のためにインドへ往還し、また人界、天界の衆生を教え導く古老先徳は漢、唐の頃から今の宋の時代にいたるまで、まるで稲や麻、竹、葦が叢生するようにおられるが、多くは風に吹かれる火の揺れ動きを仏性が得る悟りだと思っている。
ざんねんなことだ。学んだものが仏のみちびく道とはるかに隔たっていたために、このような間違いがあるのだ。いま(仏のみちびく道を学ぼうと志す者は)晩学であろうと、初学であろうと、そのようであってはならない。
(それらと同じ誤った考えによって、)たとえ気づきと悟りを学び体得しようとつとめても、その気づきと悟りは(真の)心意識の働きではない。たとえ心意識の動きを学び体得しようとつとめても、心意識の働きはそのようなものではない。
もし真の心意識の働きを会得することができるなら、真の気づきと悟りを会得することができるだろう。仏の智慧と(わたしたちが理解すべき)本質には、(つきつめれば)彼が此れに到達し、此れが彼に到達するように、違いはない。
仏性はかならず、ことごとく有るものである。ことごとく有るものが仏性であるからだ。
ことごとく有るものは、ことさらに粉々に打ち砕いてひとつひとつ調べるようなものではなく、巨大な建造物を貫通する一本の鉄の綱のように事物の中に潜在するものでもない。(人が平生の動作のなかで、たまたま)拳を振り上げるようなものであるから、大きいとか小さいという(分別でとらえることができる)ものではない。
このように(見てきた、ことごとく有るものを)仏性と呼んでいるのだから、(セーニャの見解のような誤った見方を)仏や仏祖方と同等のように考えることはできない。(セーニャの見解にあるような、気づきや悟りの主体としての何ものかを)仏性と同等のものと考えてはならない。
ある人達は思うであろう。仏性は草木の種のようなものだと。仏の教えが雨のように注がれ潤されると、芽や茎が伸び、枝や葉、花、果実をつけると。その果実はまた種をやどすと。そのように理解するのは、凡夫の考えることである。たとえそのように考えたとしても、種や、花、果実はそれぞれ個別の心であるとしてその真の様相を探求しなければならない。
果実には種が隠れている。種は(割ってみても見えないが)根や茎を生やす。ことさらに種を集めて蒔いたわけでもないのに、枝々を伸ばして草叢となる。(それに対して)仏性は(種のように)内側、外側というように論ずることはできず、(枝や茎や、草叢の姿のように)古今(の時間軸の中で)存在したり、存在しなかったりということはない。
そうであれば、たとえ凡夫が理解するように(種と花、果実の関係のように)例えたとしても、根や茎、枝、葉は同じように事物存在として生滅し、同じようにことごとく有るもの、仏性であるととらえなければならない。」

 

道元『正法眼蔵』 【私訳 仏性】 その2

【私訳 仏性】その2

 

“世尊道の一切衆生悉有仏性は、その宗旨いかん。是什麼物恁麼来の道、転法輪なり。あるひは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふは、衆生なり、群有なり。すなはち悉有は仏性なり、悉有の一悉を衆生といふ。正當恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。単伝する皮肉骨髄のみにあらず、汝得吾皮肉骨髄なるがゆゑに。しるべし、いま仏性に悉有せらるる有は、有無の有にあらず。悉有は仏語なり、仏舌なり。仏祖眼睛なり、衲僧鼻孔なり。悉有の言、さらに始有にあらず、本有にあらず、妙有等にあらず、いはんや縁有、妄有ならんや。心境、性相等にかかはれず。しかあればすなはち、衆生悉有の依正、しかしながら業増上力にあらず、妄縁起にあらず、法爾にあらず、神通修証にあらず。衆生の悉有、それ業増上および縁起法爾等ならんには、諸聖の証道および諸仏の菩提、仏祖の眼睛も、業増上力および縁起法爾なるべし。しかあらざるなり。尽界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず、直截根源人未識、忙忙業識幾時休なるがゆゑに。妄縁起の有にあらず、徧界不曽蔵のゆゑに。徧界不曽蔵といふは、かならずしも満界是有といふにあらざるなり。徧界我有は外道の邪見なり。本有の有にあらず、亙古亙今のゆゑに。始起の有にあらず、不受一塵のゆゑに。條條の有にあらず、合取のゆゑに。無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来のゆゑに。始起有の有にあらず、平常心是道のゆゑに。まさにしるべし、悉有中に衆生快便難逢なり。悉有を会取することかくのごとくなれば、悉有それ透体脱落なり。”

 

「世尊の道理にいう、一切は衆生でありことごとく有るものは仏性であるとは、その大本の肝要は何であろうか。“是什麼物恁麼来”(これなにものか、いんもにきたる。このようなものが、なぜここにきたのか。「とどのつまりこれは何なのか」。新参の南岳懐讓に大鑑慧能が問うた言葉)の道理によって、迷妄を砕くのである。
ある時は衆生と呼び、また有情と呼び、群生と呼び、群類と呼ぶものは、つまりは衆生であり、群有(三有、二十五有などに分類される、衆生が輪廻する世界の領域)のことである。(仏の智慧によって明らかにされる以外に、事物存在の本来のあり方は無いのであるから)言うなれば、ことごとく有るものは仏性(仏の智慧に照らされて現成する事物存在)である。ことごとく有るもののうちの一つが衆生である。
まさにそのようにとらえる時、衆生の内面も外側の環境も、言うなれば仏性としてことごとく有るのである。たとえば達磨大師の弟子たちは大師の皮、肉、骨、髄(になぞらえた悟り)をそれぞれ得たと伝えられているが、達磨大師が弟子たちにひとしく“あなたは私の(皮、肉、骨、髄)を得た”と言ったように、すべてが仏性であるとすれば、その一部分に仏性でないものが有り得るはずもないのである。
知らなくてはならない。いま、仏性としてことごとく有るという時の、“有る”とは有るとか無いとかいう分別の“有る”ではない。ことごとく有るというのは仏の(智慧から出た)言葉である。(誰かが解釈したものではなく)仏が直に言われる言葉である。歴代の祖師が目を見開いて探求されてきたし、また今の我々が特に鼻を利かせて嗅ぎ出さなければならないものである。
ことごとく有ると言う時、それは何かの働きによって有るということではない。もともと有るということではない。事象を超越した絶対的な何かが有るということ等でもない。もちろん何かの縁によって有るということや、あれこれ想像する頭の中に有るということであろうはずがない。それは心の有様や目前の事物の有様とは関係ないのである。
そうであるならば、衆生がことごとく有るということの拠りどころは、業(カルマ。心身のふるまい、それによって得られる結果)によって方向づけられるのではなく、欲望や思念によって起こるものではなく、あるがままそのようにあるのでもなく、神通力や修行の悟りによるものでもない。
もし衆生がことごとく有ることの拠りどころが、業によって方向づけられたり、欲望や思念によって起こるものであったり、あるがままそのようにあるのならば、先の聖人方の仏のみちびく道の実践も、諸仏の真実の悟りも、祖師方の目を見開くような探求も、また業によって方向づけられたり、欲望や思念によって起こるものであったり、あるがままそのようにあることになるだろう。そうではないのだ。
(ただ今、この場である)世界の何処であっても、他から来てさまざまに働きかけてくるような何物もないのである。(ただ今、この場で)自己の他に何事か働きかけてくるような者はいないのである。“直截根源人未識、忙忙業識幾時休”(直に根源を截るに、人未だ識らず。忙忙たる業識、幾時に休む。「直截に根源を見ることを人は未だ知らず、輪廻の基となる業と識は何時になれば止むのかわからない」ゆえに、人は他のどこにも“有る”の拠りどころはないとわからないのである。
欲望や思念によって“有る”のではないことは、“徧界不曽蔵”(へんがいかつてかくさず。「世界は目前にあるままであり、何かを隠しているということはない」)であるゆえに(“有る”の拠りどころに人の欲望や思念が入り込む余地はないのである)。“徧界不曽蔵”ということは、かならずしも”満界是有”(世界に満ちているもの、それが“有る”ということ)ではない。世界が実体であるかのように考えるのは仏の教えから外れた誤った見方である。
もともと“有る”のではないことは、“亙古亙今”(ごうこごこん。「古来より今に至るまで」)、(すべての事物は刹那に生滅を繰り返しているもの)だからである。
何かの働きによって“有る”ということではないことは、仏の智慧は“不受一塵”(ふじゅいちじん。「何物の影響も受けない」)からである。
個々の要素として分析できるから“有る”のではないことは、“有る”ことはそれ自体をまるごと受け取るものだからである。
無始(永遠の昔から連綿と続いている)の“有る”でないことは、“是什麼物恁麼来”(「とどのつまりこれは何なのか」と、まさに現前のもの)として受け取るからである。
始起(今に始まる)の“有る”ではないことは、“平常心是道”(南泉普願が趙州従諗にあたえた言葉。びょうじょうしんこれどう。「心の有様が常に平静であることが仏のみちびく道である」)とあるように、人の覚醒のような特別な契機によってはじめてあるようなものではないからである。
しらなければならない。ことごとく有るということにおいて、衆生は自らに都合の良いようにあることは実に困難なことである。
ことごとく有るということを、このように会得することができれば、その様相がはじめて、自己の心身の制約を離れて立ち現れるのである。」

道元『正法眼蔵』 【私訳 仏性】 その1

【私訳 仏性】その1


釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易。

これ、われらが大師釈尊の師子吼の転法輪なりといへども、一切諸仏、一切祖師の頂額眼睛なり。参学しきたること、すでに二千一百九十年<當日本仁治二年辛丑歳>、正嫡わづかに五十代<至先師天童浄和尚>、西天二十八代、代代住持しきたり、東地二十三世、世世住持しきたる。十方の仏祖、ともに住持せり。“

 

「“釈迦牟尼仏は言われた。一切の存在は衆生であり、ことごとく有るものは仏性である。仏(の智慧の顕現)は常にあり、変化することはない。”

これは、わたしたちの大師である釈尊の、皆を覚醒させ迷妄を砕く説法であるが、一切の諸仏、一切の祖師たちがひとしく頭頂におしいただき目を開く教えとしてきたものである。学び探求されて、すでに2190年となった<日本の仁治2年(1241年)において>。釈尊直系の弟子はまだ五十代目である<先師、天童如浄和尚まで>。インドにおいては二十八代の祖師が代々受持され、東アジアに伝えられて二十三代の祖師がいつの世も受持されてきた。あらゆる宗旨の祖師たちも、ひとしく受持してこられたのである。」

道元『正法眼蔵』 【私訳 摩訶般若波羅蜜】 その4 (終)

【私訳 摩訶般若波羅蜜】その4 (終)

 

釈迦牟尼仏言、舍利子、是諸有情、於此般若波羅蜜多、応如仏住供養礼敬。思惟般若波羅蜜多、応如供養礼敬仏薄伽梵。所以者何。般若波羅蜜多、不異仏薄伽梵、仏薄伽梵、不異般若波羅蜜多。般若波羅蜜多、即是仏薄伽梵、仏薄伽梵、即是般若波羅蜜多。何以故。舍利子、一切如来応正等覚、皆由般若波羅蜜多得出現故。舍利子、一切菩薩摩訶薩、独覚、阿羅漢、不還、一来、預流等、皆由般若波羅蜜多得出現故。舍利子、一切世間十善業道、四静慮、四無色定、五神通、皆由般若波羅蜜多得出現故。
しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅蜜多なり、般若波羅蜜多は是諸法なり。この諸法は空相なり、不生不滅なり、不垢不浄、不増不減なり。この般若波羅蜜多の現成せるは、仏薄伽梵の現成せるなり。問取すべし、参取すべし。供養礼敬する、これ仏薄伽梵に奉覲承事するなり。奉覲承事の仏薄伽梵なり。

 

正法眼蔵摩訶般若波羅蜜
爾時天福元年夏安居日在観音導利院示衆
寛元二年甲辰春三月廿一日侍越宇吉峰精舎侍司書寫之 懐弉“

 

「“釈迦牟尼仏は言われた。舎利子(シャーリプトラ。釈尊十大弟子の一人)よ、このすべての衆生は、仏の智慧の実践にあたって、眼前に座される仏を供養し礼拝し敬うようにすべきである。仏の智慧の実践とは何かと思惟するとき、仏を供養し礼拝し敬うようにすべきである。なぜならば、仏の智慧の実践は(その場、その時において)仏(の智慧の顕現)に異ならないからであり、(その場、その時において)仏(の智慧が顕現していること)は仏の智慧の実践に異ならないからである。仏の智慧の実践とは、すなわち仏(の智慧の顕現)であり、仏(の智慧が顕現していること)は仏の智慧の実践に異ならないからである。
なぜならば、舎利子よ、一切の諸仏は、みな仏の智慧の実践を得ることで現れ出るからである。舎利子よ、一切の悟りを求める偉大な衆生、自ら悟りを完成する者、阿羅漢果、不還果、一来果、預流果を得る者たちは、みな仏の智慧の実践を得ることで現れ出るからである。舎利子よ、衆生が今生で努める一切の十善業道(不殺、不盗、不邪婬、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貪欲、不瞋恚、不邪見)、四静慮(四禅。禅定の深まりを四つの階梯でとらえるもの。物質的な制約の内にある)、四無色定(物質的な制約を離れた禅定の階梯)、五神通(深い禅定によって得られる能力。神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通)、これらはみな仏の智慧の実践を得ることで現れ出るからである。“

 

そうであればすなわち、仏(の智慧の顕現)は仏の智慧の実践である。仏の智慧の実践は、すべての事物存在(の現出としてとらえることができるの)である。
すべての事物存在は空である。(それらは実体ではなく、有無の分別でとらえることはできないから)生ずることなく、滅することもない。汚れることなく、浄められることもない。増えることも減ることもない。
仏の智慧の実践が今まさに現れているということは、すなわち仏(の智慧の顕現)が今まさに現れているということである。よく学び会得するべきである。よく実践して会得するべきである。
仏の智慧の実践を供養し、礼拝し敬うことは、仏(の智慧の顕現)を深く理解し、まさに引受けることである。深く理解し、まさに引受ける(べき)仏(の智慧の顕現)である。

 

正法眼蔵、摩訶般若波羅蜜の巻
これは、天福元年(1233年)、夏安居の日、観音導利院興聖寺において大衆に示された。
寛元2年(1244年)3月21日、越前、吉峰寺の侍者寮にてこれを書写する。 懐弉」


―― 道元正法眼蔵」【私訳 摩訶般若波羅蜜】 終わり ――

道元『正法眼蔵』 【私訳 摩訶般若波羅蜜】 その3

【私訳 摩訶般若波羅蜜】その3

 

“天帝釈問具寿善現言、大徳、若菩薩摩訶薩、欲学甚深般若波羅蜜多、當如何学。善現答言、憍尸迦、若菩薩摩訶薩、欲学甚深般若波羅蜜多、當如虚空学。
しかあれば、学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。
天帝釈復曰仏言、世尊、若善男子善女人等、於此所説甚深般若波羅蜜多、受持読誦、如理思惟、為佗演説、我當云何而為守護。唯願、世尊、垂哀示教。爾時具寿善現、謂天帝釈言、憍尸迦、汝、見有法可守護不。天帝釈言、不也、大徳、我不見有法是可守護。善現言、憍尸迦、若善男子善女人等、作如是説、甚深般若波羅蜜多、即為守護。若善男子善女人等、作如所説、甚深般若波羅蜜多、常不遠離。當知、一切人非人等、伺求其便、欲為損害、終不能得。憍尸迦、若欲守護、作如所説。甚深般若波羅蜜多、諸菩薩者無異為欲守護虚空。
しるべし、受持、読誦、如理思惟、すなはち守護般若なり。欲守護は受持、読誦等なり。
先師古仏云、渾身似口掛虚空、不問東西南北風、一等為佗談般若。滴丁東了滴丁東。
これ仏祖嫡嫡の談般若なり。渾身般若なり、渾佗般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり。“

 

「“帝釈天(インドラ。仏教の守護者とされるインド神話の神)が須菩提長老(スブーティ長老。釈尊十大弟子の一人)に尋ねて言った。尊い方よ、もし悟りを求める偉大な衆生が仏の智慧の実践を学ぼうと欲したら、どのように学ぶのでしょうか。須菩提は答えて言った。憍尸迦(カウシカ。帝釈天が前世でバラモンであった時の名)よ、もし悟りを求める偉大な衆生が仏の智慧の実践を学ぼうと欲したら、まさに虚空(一切の差障りがなく、すべての存在を容れる空間)のように学ぶのだ。”

 

このようであれば、仏の智慧を学ぶことは虚空(思慮分別で差別することなくすべての存在を受け入れる)である。虚空である(あろうとする)ことが仏の智慧を学ぶことである。

 

“縁日の吉凶にちなみ、帝釈天が仏に申し上げた。世尊よ、もし人々が奥深い仏の智慧の実践について説かれるところを受持し読誦し、その道理によって思惟し、他の者に教えを伝えようとする時、(仏教の守護者であるわたしは)まさにここで、どのように守護するのでしょうか。なにとぞお願いいたします。世尊よ。あわれみを給わってご教示ください。

その時、須菩提帝釈天に尋ねて言った。憍尸迦よ、あなたは守護するべき何ものかがあると見たことがあるのか?どうか?

帝釈天は言った。見ていません。尊いお方よ、わたしはこれこそ守護するべき何ものかであると見たことはありません。

須菩提は言った。憍尸迦よ、もし人々が、この奥深い仏の智慧の実践の教えの通りにふるまうなら、それがまさに守護なのだ。もし人々が、この奥深い仏の智慧の実践の教えの通りにふるまうなら、常に仏の智慧から遠く離れてしまうことはない。まさに知るのだ。一切の人間や他の衆生が、この教えを損ない害するような手段を探したとしても、ついに得ることはないのだ。憍尸迦よ、もし守護しようと欲するなら、教えの通りにふるまうのだ。奥深い仏の智慧の実践と、悟りを求める衆生のふるまいは、虚空を守護しようと欲してなされることで、なんら異なるものではない。”

 

知らなければならない。仏の智慧の実践について説かれるところを受持し読誦し、その道理によって思惟することが、すなわち仏の智慧を守護することなのだ。守護しようと欲することが、受持し読誦すること等なのだ。

 

“師匠である高徳の僧(天童如浄をさす。道元の師匠)が言われた。この全身全霊は虚空に掛かった風鈴に似ている。東西南北いずこからの風であろうとも、ひとしく他のために仏の智慧をかたる。ちりん、ちりん、と。”

 

これが釈尊より代々絶えることなく伝えられた仏の智慧をかたることである。全身で取り組む仏の智慧である。他の者のすべてに向ける仏の智慧である。自らのすべてに向ける仏の智慧である。東西南北すべての方に向ける仏の智慧である。」

道元『正法眼蔵』 【私訳 摩訶般若波羅蜜】 その2

【私訳 摩訶般若波羅蜜】その2

 

釈迦牟尼如来会中有一苾蒭。竊作是念。我應敬礼甚深般若波羅蜜多。此中雖無諸法生滅、而有戒蘊、定蘊、慧蘊、解脱蘊、知見蘊施設可得、亦有預流果、一来果、不還果、阿羅漢果施設可得、亦有独覚菩提施設可得、亦有無上正等菩提施設可得、亦有仏法僧宝施設可得、亦有転妙法輪、度有情類施設可得。仏知其念、告苾蒭言、如是如是。甚深般若波羅蜜、微妙難測。
而今の一苾蒭の竊作念は、諸法を敬礼するところに、雖無生滅の般若、これ敬礼なり。この正当敬礼時、ちなみに施設可得の般若現成せり。いわゆる戒定慧乃至度有情類等なり、これを無といふ。無の施設、かくのごとく可得なり。これ甚深微妙難測の般若波羅蜜なり。“

 

釈尊の弟子達の中にひとりの出家者がいた。心中にこのような思いをいだいた。

“私は深遠な仏の智慧の実践を敬い礼拝しよう。(なにものにも実体はないという仏の智慧に照らせば、事物の存在について、無かったものが有るようになったとか、有ったものが無くなったと捉えることは厳密には錯覚であるから、)この中には事物や存在の生滅というものはそもそも無い(ゆえに、何かを得るとか、失うとか捉えるのも錯覚ではある)が、戒蘊(悪を止め善を行うこと)、定蘊(心を平穏にすること)、慧蘊(智慧を得ること)、解脱蘊(煩悩から離れること)、解脱知見蘊(煩悩から離れたと自覚すること)の修行の道程という仮設(あるかのように仮に捉えるもの)が得られる。
また預流果、一来果、不還果、阿羅漢果という悟りの階梯という仮設が得られる。
また自ら見出す正しい智慧という仮設が得られる。
また仏の完全な智慧という仮設が得られる。
また仏(仏そのもの)、宝(仏の教え)、僧(修行者の集い)の三つの宝という仮設が得られる。
また仏の奥深い教えの伝道による衆生の教化の成就という仮設が得られる”。

仏はその思いを知って、出家者に告げて言われた。その通り、その通り。深遠な仏の智慧の実践は言葉で言い尽くすことはできず見極めがたいものである。

 

今、この一人の出家者はその思いの中で、さまざまな悟りの道程や階梯などを敬い礼拝しているが、それらに通底して肝要なのは、事物や存在の生滅というものはそもそも無いという智慧であり、それを敬い礼拝するのである。
これを正しく適切に敬い礼拝する時、(何かを実体視するという錯覚にとらわれず)仮設として得るべしという、仏の智慧が現れるのである。いわゆる戒定慧の三学から衆生の教化にいたる仏の教えの実践がそれである。
これを無と名づける。無という名づけもまた仮設であるが、その名づけによって得ることができるのである。

これが深遠で言葉で言い尽くすことができず見極めがたい仏の智慧の実践である。」

道元『正法眼蔵』 【私訳 摩訶般若波羅蜜】 その1

【私訳 摩訶般若波羅蜜】その1

“観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色受想行識なり、五枚の般若なり。照見これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空即空なり。百草なり。万象なり。般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意、色声香味触法、および眼耳鼻舌身意識等なり。また四枚の般若あり、苦集滅道なり。また六枚の般若あり、布施、浄戒、安忍、精進、静慮、般若なり。また一枚の般若波羅蜜而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり。また般若波羅蜜三枚あり、過去現在未来なり。また般若六枚あり、地水火風空識なり。また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行住坐臥なり。”

 

観音菩薩が仏の智慧によって事物を観察する修行を深く実践されたことは、つまり五蘊は空(永続する実体ではなく、また有るか無いかの分別によって確定的にとらえることができない)であると全身全霊をもって明らかに観得されたのである。

五蘊とは色(事物そのもの)、受(対象についての感覚情報の感受)、想(対象のイメージの形成)、行(意識の形成)、識(判別、評価の形成)という一群の現象作用である。これらは五種の仏の智慧の現れである。それを明らかに観得することは仏の智慧の現れである。

この大本の主旨を現象世界に当てはめてみれば、存在するもの全てはすなわち空であり、空はすなわち存在するもの全てを指すのである。(仏の智慧によらない自己の分別は結局は誤りであるから、)存在するものは存在するものとしてしか受け取れないし、空は空としてしか受け取ることができないもの(と知るべき)である。あらゆる物質存在がそうであり、あらゆる形象がそうである。十二種の仏の智慧がある。これを十二入(眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚器官と色、声、香、味、触、法の六つの感覚対象)という。また十八種の仏の智慧がある。眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚器官、色、声、香、味、触、法の六つの感覚対象、そしてそれぞれが接触することで生じる眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの意識である。

また四種の仏の智慧がある。苦諦(生命存在は苦しみであること)、集諦(苦しみの原因は煩悩、執着であること)、滅諦(煩悩と執着を離れることが苦しみから逃れる方法であること)、道諦(苦しみから逃れるための実践を仏が教えること)の四つの真理を知ることである。また六種の仏の智慧がある。布施、浄戒、安忍、精進、静慮、般若の六つの仏の智慧の実践方法である。

また一つの仏の智慧がある。これまで述べた種々の智慧があまねく知られ実践された時、阿耨多羅三藐三菩提と名づけられる仏の最上の智慧が現れるのである。

三種の仏の智慧の実践がある。過去、現在、未来の三時にわたる業である。また六種の仏の智慧がある。(人間をはじめとする万物を構成する)地、水、火、風、空、識の六つの要素である。(仏の智慧の実践は、思弁に終始する空想上のものではなく、このような構成要素によって成り立つ現象世界にかかわり取り組むものである。であるから)また四種の仏の智慧の実践がいつの時代でも常に行われている。日常の行住坐臥がそれである。」