【私訳 摩訶般若波羅蜜】その4 (終)
“釈迦牟尼仏言、舍利子、是諸有情、於此般若波羅蜜多、応如仏住供養礼敬。思惟般若波羅蜜多、応如供養礼敬仏薄伽梵。所以者何。般若波羅蜜多、不異仏薄伽梵、仏薄伽梵、不異般若波羅蜜多。般若波羅蜜多、即是仏薄伽梵、仏薄伽梵、即是般若波羅蜜多。何以故。舍利子、一切如来応正等覚、皆由般若波羅蜜多得出現故。舍利子、一切菩薩摩訶薩、独覚、阿羅漢、不還、一来、預流等、皆由般若波羅蜜多得出現故。舍利子、一切世間十善業道、四静慮、四無色定、五神通、皆由般若波羅蜜多得出現故。
しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅蜜多なり、般若波羅蜜多は是諸法なり。この諸法は空相なり、不生不滅なり、不垢不浄、不増不減なり。この般若波羅蜜多の現成せるは、仏薄伽梵の現成せるなり。問取すべし、参取すべし。供養礼敬する、これ仏薄伽梵に奉覲承事するなり。奉覲承事の仏薄伽梵なり。
正法眼蔵摩訶般若波羅蜜
爾時天福元年夏安居日在観音導利院示衆
寛元二年甲辰春三月廿一日侍越宇吉峰精舎侍司書寫之 懐弉“
「“釈迦牟尼仏は言われた。舎利子(シャーリプトラ。釈尊十大弟子の一人)よ、このすべての衆生は、仏の智慧の実践にあたって、眼前に座される仏を供養し礼拝し敬うようにすべきである。仏の智慧の実践とは何かと思惟するとき、仏を供養し礼拝し敬うようにすべきである。なぜならば、仏の智慧の実践は(その場、その時において)仏(の智慧の顕現)に異ならないからであり、(その場、その時において)仏(の智慧が顕現していること)は仏の智慧の実践に異ならないからである。仏の智慧の実践とは、すなわち仏(の智慧の顕現)であり、仏(の智慧が顕現していること)は仏の智慧の実践に異ならないからである。
なぜならば、舎利子よ、一切の諸仏は、みな仏の智慧の実践を得ることで現れ出るからである。舎利子よ、一切の悟りを求める偉大な衆生、自ら悟りを完成する者、阿羅漢果、不還果、一来果、預流果を得る者たちは、みな仏の智慧の実践を得ることで現れ出るからである。舎利子よ、衆生が今生で努める一切の十善業道(不殺、不盗、不邪婬、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貪欲、不瞋恚、不邪見)、四静慮(四禅。禅定の深まりを四つの階梯でとらえるもの。物質的な制約の内にある)、四無色定(物質的な制約を離れた禅定の階梯)、五神通(深い禅定によって得られる能力。神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通)、これらはみな仏の智慧の実践を得ることで現れ出るからである。“
そうであればすなわち、仏(の智慧の顕現)は仏の智慧の実践である。仏の智慧の実践は、すべての事物存在(の現出としてとらえることができるの)である。
すべての事物存在は空である。(それらは実体ではなく、有無の分別でとらえることはできないから)生ずることなく、滅することもない。汚れることなく、浄められることもない。増えることも減ることもない。
仏の智慧の実践が今まさに現れているということは、すなわち仏(の智慧の顕現)が今まさに現れているということである。よく学び会得するべきである。よく実践して会得するべきである。
仏の智慧の実践を供養し、礼拝し敬うことは、仏(の智慧の顕現)を深く理解し、まさに引受けることである。深く理解し、まさに引受ける(べき)仏(の智慧の顕現)である。
正法眼蔵、摩訶般若波羅蜜の巻
これは、天福元年(1233年)、夏安居の日、観音導利院興聖寺において大衆に示された。
寛元2年(1244年)3月21日、越前、吉峰寺の侍者寮にてこれを書写する。 懐弉」