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ボケ防止のために勉強したあれこれを記録しています。

道元『正法眼蔵』 【私訳 仏性】 その2

【私訳 仏性】その2

 

“世尊道の一切衆生悉有仏性は、その宗旨いかん。是什麼物恁麼来の道、転法輪なり。あるひは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふは、衆生なり、群有なり。すなはち悉有は仏性なり、悉有の一悉を衆生といふ。正當恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。単伝する皮肉骨髄のみにあらず、汝得吾皮肉骨髄なるがゆゑに。しるべし、いま仏性に悉有せらるる有は、有無の有にあらず。悉有は仏語なり、仏舌なり。仏祖眼睛なり、衲僧鼻孔なり。悉有の言、さらに始有にあらず、本有にあらず、妙有等にあらず、いはんや縁有、妄有ならんや。心境、性相等にかかはれず。しかあればすなはち、衆生悉有の依正、しかしながら業増上力にあらず、妄縁起にあらず、法爾にあらず、神通修証にあらず。衆生の悉有、それ業増上および縁起法爾等ならんには、諸聖の証道および諸仏の菩提、仏祖の眼睛も、業増上力および縁起法爾なるべし。しかあらざるなり。尽界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず、直截根源人未識、忙忙業識幾時休なるがゆゑに。妄縁起の有にあらず、徧界不曽蔵のゆゑに。徧界不曽蔵といふは、かならずしも満界是有といふにあらざるなり。徧界我有は外道の邪見なり。本有の有にあらず、亙古亙今のゆゑに。始起の有にあらず、不受一塵のゆゑに。條條の有にあらず、合取のゆゑに。無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来のゆゑに。始起有の有にあらず、平常心是道のゆゑに。まさにしるべし、悉有中に衆生快便難逢なり。悉有を会取することかくのごとくなれば、悉有それ透体脱落なり。”

 

「世尊の道理にいう、一切は衆生でありことごとく有るものは仏性であるとは、その大本の肝要は何であろうか。“是什麼物恁麼来”(これなにものか、いんもにきたる。このようなものが、なぜここにきたのか。「とどのつまりこれは何なのか」。新参の南岳懐讓に大鑑慧能が問うた言葉)の道理によって、迷妄を砕くのである。
ある時は衆生と呼び、また有情と呼び、群生と呼び、群類と呼ぶものは、つまりは衆生であり、群有(三有、二十五有などに分類される、衆生が輪廻する世界の領域)のことである。(仏の智慧によって明らかにされる以外に、事物存在の本来のあり方は無いのであるから)言うなれば、ことごとく有るものは仏性(仏の智慧に照らされて現成する事物存在)である。ことごとく有るもののうちの一つが衆生である。
まさにそのようにとらえる時、衆生の内面も外側の環境も、言うなれば仏性としてことごとく有るのである。たとえば達磨大師の弟子たちは大師の皮、肉、骨、髄(になぞらえた悟り)をそれぞれ得たと伝えられているが、達磨大師が弟子たちにひとしく“あなたは私の(皮、肉、骨、髄)を得た”と言ったように、すべてが仏性であるとすれば、その一部分に仏性でないものが有り得るはずもないのである。
知らなくてはならない。いま、仏性としてことごとく有るという時の、“有る”とは有るとか無いとかいう分別の“有る”ではない。ことごとく有るというのは仏の(智慧から出た)言葉である。(誰かが解釈したものではなく)仏が直に言われる言葉である。歴代の祖師が目を見開いて探求されてきたし、また今の我々が特に鼻を利かせて嗅ぎ出さなければならないものである。
ことごとく有ると言う時、それは何かの働きによって有るということではない。もともと有るということではない。事象を超越した絶対的な何かが有るということ等でもない。もちろん何かの縁によって有るということや、あれこれ想像する頭の中に有るということであろうはずがない。それは心の有様や目前の事物の有様とは関係ないのである。
そうであるならば、衆生がことごとく有るということの拠りどころは、業(カルマ。心身のふるまい、それによって得られる結果)によって方向づけられるのではなく、欲望や思念によって起こるものではなく、あるがままそのようにあるのでもなく、神通力や修行の悟りによるものでもない。
もし衆生がことごとく有ることの拠りどころが、業によって方向づけられたり、欲望や思念によって起こるものであったり、あるがままそのようにあるのならば、先の聖人方の仏のみちびく道の実践も、諸仏の真実の悟りも、祖師方の目を見開くような探求も、また業によって方向づけられたり、欲望や思念によって起こるものであったり、あるがままそのようにあることになるだろう。そうではないのだ。
(ただ今、この場である)世界の何処であっても、他から来てさまざまに働きかけてくるような何物もないのである。(ただ今、この場で)自己の他に何事か働きかけてくるような者はいないのである。“直截根源人未識、忙忙業識幾時休”(直に根源を截るに、人未だ識らず。忙忙たる業識、幾時に休む。「直截に根源を見ることを人は未だ知らず、輪廻の基となる業と識は何時になれば止むのかわからない」ゆえに、人は他のどこにも“有る”の拠りどころはないとわからないのである。
欲望や思念によって“有る”のではないことは、“徧界不曽蔵”(へんがいかつてかくさず。「世界は目前にあるままであり、何かを隠しているということはない」)であるゆえに(“有る”の拠りどころに人の欲望や思念が入り込む余地はないのである)。“徧界不曽蔵”ということは、かならずしも”満界是有”(世界に満ちているもの、それが“有る”ということ)ではない。世界が実体であるかのように考えるのは仏の教えから外れた誤った見方である。
もともと“有る”のではないことは、“亙古亙今”(ごうこごこん。「古来より今に至るまで」)、(すべての事物は刹那に生滅を繰り返しているもの)だからである。
何かの働きによって“有る”ということではないことは、仏の智慧は“不受一塵”(ふじゅいちじん。「何物の影響も受けない」)からである。
個々の要素として分析できるから“有る”のではないことは、“有る”ことはそれ自体をまるごと受け取るものだからである。
無始(永遠の昔から連綿と続いている)の“有る”でないことは、“是什麼物恁麼来”(「とどのつまりこれは何なのか」と、まさに現前のもの)として受け取るからである。
始起(今に始まる)の“有る”ではないことは、“平常心是道”(南泉普願が趙州従諗にあたえた言葉。びょうじょうしんこれどう。「心の有様が常に平静であることが仏のみちびく道である」)とあるように、人の覚醒のような特別な契機によってはじめてあるようなものではないからである。
しらなければならない。ことごとく有るということにおいて、衆生は自らに都合の良いようにあることは実に困難なことである。
ことごとく有るということを、このように会得することができれば、その様相がはじめて、自己の心身の制約を離れて立ち現れるのである。」